「神の霊が注がれた」  02.05.19
                ヨエル3:1〜5、使徒2:5〜16

 ペンテコステの日、エルサレムの人々は驚きました。神の偉大な救いの業が、
自分の国の言葉で、自分に向かって、自分に判るように響いてきたからです。
弟子たちが、自分に向かって神の救いの業を語りかけてくるのを聞きながら、
ある人たちは、「酒に酔っているのではないか」とあざけります。
 人を間違えているに違いないと思ったのでしょう。
自分に向かって神の言葉が響いてくるとは思ってもみなかったのです。
 しかし、そのような者にも、聖霊は神の救いの業を心に響かせ、心の中に
飛び込ませます。ペンテコステ以降、聖霊は、救いの業を人の心に響かせ
続けています。

 ペトロは、驚く人々に自分たちは酒に酔っているのではないと呼びかけます。
相手を間違えているのでない。確かにあなたのために救いを語っている。
そういって預言者ヨエルの言葉を告げました。ヨエルは、息子、娘、老人、若者、
男女の奴隷に向かって神の言葉が与えられることを預言していました。
神さまのことを聞くことがないと思われていた者にも、神の言葉が響き出す。
聖霊は、まさにそのことをひき起こしたのでした。ペトロ、エルサレムの人たち、
そして私たちもそうです。
預言者でもなく、立派でもない私たちへも、聖霊が働きかけ、自分に対する神の
救いの御業として、御言葉を私たちに響かせてくださったのです。

 さて、その霊は「注がれる」と言われるのですから、注がれる私たちは謙遜で
いるべきです。傲慢さや様々な思いで心が一杯になっていては、注がれても
溢れてしまいます。心を空しくして、霊を注いでいただく備えをいつもしていたいと
思います。そうやって、救いの御業を届けていただくことで、私たちは真に支えられ
導かれていることに気づかされて、救われた者としての感謝の歩みを進み出すのです。

 私たちは、日頃から聖霊にとてもお世話になっています。
日常生活の中で弱っている時に、迷っている時に、聖霊は、み言葉を
そんな私に対する神の御言葉として響かせ、生きる力をくださるからです。